「あの日見た夕焼けと何も変わらん。」
東京駅周辺の高層ビルが立ち並ぶ間を、多くの人がそそくさと家路へ向かう。
いつもの見慣れた光景。
購入した温かいコーヒーが入った袋とチョコレートを握りしめ、東京駅の中でも一番高い高層ビルの24階にある会社のデスクへと戻る。
「さぁ、今日こそは終電前に帰宅するぞ。」なんて言うものの、スケジュール表を見て3秒で諦める毎日を送る社会人になって早8年目。
高校卒業を機に上京し大学卒業後、日本最大手広告代理店に入社。
その後、ベンチャー企業役員、外資系経営コンサルタントと渡り歩く鹿児島生まれのヤマト(29)。
そんなヤマトの就職活動から現在までを綴った上京物語。
第1話:高校・大学時代編
「大学はどこに行くの?」
高校の担任の先生は、生まれも育ちも鹿児島だが綺麗な標準語を話す人だ。
「早稲田か慶応に行って野球をします。」
神宮球場を満員にし、乱舞する応援団、スタンドを彩るチアリーダー、肩を組み一体感を保ち応援する学生たち。
NHKのテレビ中継から映る大学野球早慶戦に根っからの野球少年だった僕は憧憬した。
高校時代は、順風満帆だった。
部員が100人超える中で1年生から試合に出場し、その年に九州大会ベスト8。
3年生の頃には主将を務め、甲子園こそ出場できなかったものの文武両道を貫き通し、充実した日々を送っていた。
「お願いだから滑り止めを受けてちょうだい。うちは浪人させるお金はないよ。」
僕の通っていた高校は、慶応義塾大学・早稲田大学への指定校推薦もなく自力で入学するしかなかったものの、慶応・早稲田しか受験しないという無謀なことをやろうとしていた僕に、両親はそっと複数の大学パンフレットを渡した。
「この大学なら野球もそこそこ強いし、総理大臣も輩出している名門大学よ。それにあなたが言っていたマスコミ業界にも進みやすいし。」
父が鹿児島のテレビ局に務めており、小さい頃の僕は、父が携わっていた番組を観て「父ちゃんスゲー!」とテレビの前から離れなかった記憶がある。
そんな影響もあり、漠然と就職するならマスコミ関係と思っていた。
東京の大学進学を選択した時も、野球をすることが第一優先だったものの、心の片隅にこの頃の親父を憧れる気持ちが残っていた。
「わかった。まぁ慶応か早稲田に行く俺にとっては関係ないけどね。」
若さゆえの、強気だった。
早春の陽射しと桜が咲き踊る季節、
2006年4月。
僕は慶応でもなく早稲田でもなく、両親から進められた大学の入学式に出席していた。
「大学4年間で慶応、早稲田に行った奴らに負けないくらい野球も人としても必ず成長する。」
挫折感を味わった負けず嫌いな18歳は、1人で必死にこの現実をプラスに捉えようとしていた。
大学での生活は、入学式に感じた劣等感とは反対に全てのことが新鮮で刺激に満ち溢れ、心の底から楽しかった。
毎日野球に没頭できることはもちろん、鹿児島では出会ったこともない価値観、考え、嗜好を持った多くの仲間達との出会い。
ちょっと電車に乗れば、テレビで流れる街並みがすぐそこにあった。
夢を見ているくらい華やかな東京が、僕を迎え入れてくれた。
生活のメインとなった野球も1年目から試合に出場し、3年の時にはリーグ選抜チーム、主将にも選出され、卒業後も社会人野球や独立リーグに進む予定だった。
そんな野球も遊びも勉強も全力でやっていた毎日を過ごし、20歳の誕生日を迎えたばかりの僕に、鹿児島の母から一本の電話があった。
今でも目を閉じると鮮明に思い出すことができる。
「お父さんが今日の朝亡くなったよ。」
そして、ここから僕の人生が一気に変化していく。
つづく..
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